科挙 kakyo 2004 2 22
科挙については、以前、以下のように書きました。
あの時代は、「銀などの財宝」でしたが、
現代では、「為替介入」でしょうか。
巨額の資金を為替介入に使う余裕があるならば、
その資金を、内需振興に使うべきでしょう。
陶酔 euphoria 2004 2 17
2月16日の日経新聞「景気指標」には、このような記事があります。
「日米が、陶酔からさめる時」
「財務省による円売り・ドル買いの市場介入が、
空前の規模に膨れ上がっている。」
「1月の介入額は、7兆円にのぼり、
外貨準備が、7400億ドルに達した。」
「円高防止のためとはいえ、
億円単位の予算節約に四苦八苦している国とは思えない大盤振る舞いだ。」
「財務省は、買ったドルを、アメリカ国債で運用。」
科挙 vices of bureaucracy 2003 6 24
昔、中国に、宋という国がありました。
この宋という国が成立するまでは、
国内は、大変な混乱状態だったのです。
あらゆる地方において、
武人(軍人)が、私兵を集めて、勢力を築き、
「武人による政治」が台頭し、
武力によって専制的な武断政治が、
各地方で行われていたのです。
その後、この混乱を治め、中国を統一したのが、
宋という国でした。
この宋の国においては、誰もが、
軍人による「武断政治」の弊害に嫌気がし、
徹底的な「文治主義」の政策をとることになりました。
各地方に台頭した武人による勢力を押さえるために、
各地方の州の長官には、文民を派遣しました。
こうすることで、武人を政治から徹底的に排除しました。
こうして、中央権力を強固にし、
地方権力をひたすら抑止する政策が、
宋という国の統治理念になったのです。
この結果、中央集権的な官僚国家が形成されたのです。
この中央集権的国家の基礎となったのが、「科挙」という制度でした。
科挙というのは、官僚というエリートを採用する試験のことです。
この科挙という制度は、隋の時代に始まった制度ですが、
宋の時代に改革されて、完成したのです。
科挙という試験は、非常に難関の試験であったので、
幼少時から猛烈な受験勉強をしないと合格しない試験になったのです。
その結果、この科挙という難関の試験を突破していったのは、
裕福な階層の子弟たちでした。
こうした科挙という制度によって、
武人という支配階級はなくなったのですが、
今度は、官僚が支配階級になってしまったのです。
そして、このような官僚が支配する国家は、
武人が支配した国家の時とは、また違った弊害がでてきたのです。
この文治主義の行過ぎた結果、
官吏の増大と、
その組織の肥大化により、
国家のあらゆるシステムは、硬直化していくことになったのです。
このため、結果的には、国力の低下へつながったのです。
このように、文治主義の政策に終始した結果、
国力の低下を招き、
宋という国は、対外的な軍事力の低下を招くことになったのです。
そのため、外国勢力の圧力に対して、常に守勢にまわり、
外交政策的には、消極的な政策を取りました。
この消極的な政策とは、有力な外国勢力に対し、
「膨大な銀などの財宝」を贈ることでした。
こうして、有力な外国勢力に対して、財宝を贈ることで、
外国勢力の圧力は、一時的に弱まりました。
しかしながら、国内では文治主義に終始し、
国外では消極策に終始することで、
一応の平和を維持することができましたが、
やがて、破綻していくことになります。
有力な外国勢力に贈る財宝の増大と、
肥大化していく官僚組織により、
これらの存在は、国家という家に住み着いた、
シロアリのような存在となったのです。
このため、国家財政の困窮は深刻となり、
対内的にも、対外的にも、国難の状態となりました。
こうした危機的状況に対して、
国家システムの大改革が、必須となったのです。
この大改革は、一時的には実を結びましたが、
結局は、保守派官僚の巻き返しにより、形骸化しました。
こうして、国家財政は、さらに悪化し、
地方では、「中小自作農」が没落していきました。
この結果、国力の低下は、誰の目にも明らかになり、
北方の有力な外国勢力の侵入を許し、宋という国は滅亡したのです。